皿倉山(622m)、帆柱山(488m)、花尾山(351m)を縦走した。皿倉山は、長年勤めていた企業の背後にある山で、慣れ親しんだ山。私は最近まで皿倉山と帆柱山が同一の山だと思っていた。皿倉山に設置されているケーブルカーは「帆柱ケーブル」であり、一般道にある皿倉山への信号標識は「帆柱登山口」となっていて、地名も帆柱町である。ならば、皿倉山の西北3Kmにある本物の帆柱山を確かめたくなったし、城址がある花尾山へも行きたくなった。むろん、少々ご無沙汰している皿倉山にも興味がある。数年前に更新された駅舎を含むケーブル設備、山上駅と頂上を結ぶスロープカーがそれ。が、私が使った動力は自前の体のみだ。皿倉山頂から帆柱山への途中、キャンプ場に通りかかった際、私が以前所属していた職場の「健康登山&バーベキュー大会」メーンイベントが家族ぐるみで催されていた。私も飛び入り参加、焼き肉やおにぎりなどを美味しく頂かせてもらった。旧職場の皆さんに感謝。 08.08.24 皿倉山登山口8:50 → 皿倉平10:00(休憩15分) → ケーブル駅10:20 → 皿倉山頂10:40(休憩10分) → キャンプ場11:20〜11:50 → 帆柱山12:20 → 花尾山13:00(休憩20分) → 皿倉山登山口15:00 |
JR八幡駅から見る皿倉山 | 登山口、九州自然歩道福岡県コースは皿倉山が起点 |
皿倉山登山口、帆柱ケーブル山麓駅 | 駅ホームに「かなた号」が停まっている |
守田 道隆 明治31年生れ。京都大学に学び、土木工学を専攻。 震災復興中の東京市に奉職。昭和4年八幡市に招かれ 10年間、新都市づくりに卓越した手腕を発揮。一時長野 県へ転出後、再びこの地八幡製鉄所の土木部長、工務 部長の要職を経て、昭和22年八幡市長に就任。戦後の 多難な時代に3期12年にわたり八幡の戦後復興、近代都 市づくりに努めた。特に青少年 運動・義務教育・社会 教育の振興及び社会福祉の増進に情熱を傾けている。 温厚にして清廉、事に臨んでは新時代を洞察する英知と 実践力とで幾多の功績を残したが、昭和45年永眠、72歳。 この胸像は氏を偲ぶ賛同者がゆかりの地に建立したもの。 昭和47年5月 (胸像説明文より抜粋) |
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登山口に立つ守田道隆の胸像 | |
4合目付近、若者は直登コースへ、私は迂回コース | 5合目の水場、汗した顔を洗う登山者 |
8合目、皿倉平(皿倉山と権現山の間にある鞍部) | 9合目ビジターセンター(以前は国民宿舎) |
ケーブル山上駅、左のエレベーターからスロープカーへ | ケーブル駅から頂上へ向かう |
野口雨情 詩碑 くきの海辺の船もよい 船も帆がなきゃ行かれない お供についたくまわにが 山で帆柱きりました その時きった帆柱は 帆柱山の杉でした 詩人野口雨情は昭和7年5月、門下阿南哲朗と帆柱山に 登り、神功皇后西征による伝説を聞き、帆柱山の詩を作った。 「くきの海辺」は洞海湾のこと。「くまわに」とは土地の豪族 熊鰐のことである。 作曲:上原げんと 唄:森繁久弥によってレコード化 署名(詩碑右下)野口雨情 筆 詩文字は阿南哲朗 (八幡児童文化会より) |
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野口雨情の詩碑(ケーブル駅〜山頂間) | |
ケーブル駅から山頂へ向かうスロープカー | 皿倉山頂広場 |
皿倉山頂から洞海湾方面を眺望、右後方に和戸大橋、暗くなれば100万$の夜景 ・・・これより帆柱山へ向う | |
皿倉平西側、熊本営林局? | 権現山周回道路入り口の標識 |
キャンプ場、「健康登山&バーベキュー大会」のメーン | 小生も飛び入り参加、美味しかった |
権現山周回道路から帆柱山・花尾山へ | 帆柱山と花尾山方向の分岐、帆柱山へあと400m |
樹木が生い茂る帆柱山頂、ここにも山城があったと聞く | スダジイの大木、初夏淡黄色の花(帆柱分岐〜花尾山間) |
花尾城址 麻生氏の居城で、中世北九州の代表的な山城。鎌倉時代 の初め建久6年(1195年)宇都宮朝長が源頼朝の命を受け 遠賀郡に入る。のちに麻生と名乗り築城。この城の築城年は 定かではないが、そのころは麻生山と呼ばれていたと伝えら れている。豊臣秀吉の九州征伐のあと天正15年(1587年) 麻生氏は筑後に所替となり廃城。三百数十年の歴史をとじた。 (参考:花尾中学校ホームページ) |
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花尾城址の碑、本丸址へは登りあと10分 | |
花尾城址の石碑、文字が素敵 | 花尾城址から皿倉山を望む、その後下山 |