元 越 山
  大分県佐伯市、元越山 582m。登山の目的は、国木田独歩が山頂から見た景色を私も眺めたいと思った。「武蔵野」「牛肉と馬鈴薯」などの著書で知られている明治の文豪・国木田独歩は、明治26年、23歳のとき佐伯に10ヶ月滞在。その間2度当山に登っている。「元越山に登る記」には『時に天晴、碧空拭うがごとく・・・』と記している。私は独歩と同じ条件にしようと晴れの日を選んだ。前夜の予報も、早朝のテレビ予報も「晴れ、15時過ぎから曇り」だったので出発。ところが、山頂からの眺めは黒雲多く米水津湾の海岸線は、雲に遮られてぼんやりとしか見えない。3回連続予報に裏切られてしまった。さらに悔しいのは、下山したとき天候が回復し、陽光が燦燦と輝いていたこと。この山は「展望の良い山全国選抜12」(山と渓谷社)なのだが、天候しだいでは平凡な山になってしまうし、独歩の時代になかった筈の植林地が頂上近くにあることが気にかかる。「またの機会に」と気持ちを切り替え、佐伯市城下町の国木田独歩記念館に向かう。  09.10.31

   
10:10 木立登山口 〜 11:00 中の地蔵 〜 11:50 山頂(昼食50) 〜 13:20 中の地蔵 〜 14:00 木立登山口    
登山開始、右端・下の地蔵
登山口付近はU字形の登山道 元越山、帰途木立川下流から写す
シダに覆われている道が続く 中の地蔵、頂上まであと1/3
唯一のロープ箇所 上の地蔵
山頂まであと900mから100mおきに標識 山頂、「元越山」の碑文を撮り忘れてしまった
山頂から米水津湾を見下ろす、天候悪く不鮮明 山頂にある一等三角点
ミヤマキリシマの狂い咲き、山頂 下山開始、このコースは山頂を除いて展望は良くない
紅葉する樹木は少ない 登山口到着
   国木田独歩と元越山      登山後、国木田独歩館へ  独歩が下宿した佐伯毛利藩重鎮の旧、坂本永年邸

       元 越 山(山頂に刻まれた碑文)

     山巓に達したるときは四囲の光景余りに美に、
    余に大に、余に全きがため感激して涙下らんとしぬ
    ただ名伏し難き鼓動の心底に激せるをみるなり、
     太平洋は、東にひらき、北は四国の地、
    手にとるがごとき近くに現れ、
    西および南はただ見る山の背に山起り、
    山の頂に山立ち、波のごとく潮のごとくその壮観無類なり
    最後の煙山ついに天外の雲に入るにごときに至りては・・・

                      国木田独歩「欺かざるの記」
                      明治26年11月6日の記録より

 
「元越山に登る記」の熟語
 
縹渺(ひょうびょう)広くてはてしない  忽焉(こつえん)たちまち、忽然
 
双眸(そうぼう)両方のひとみ、両眼  涕泣(ていきゅう)涙を流して泣く
  
 
     国木田独歩 1871年〜1908年(明治4年〜明治41年)

   幼名を亀吉、後に哲夫と改名。ペンネームは独歩のほか数個
  東京専門学校(現、早稲田大学)在学中、徳富蘇峰の影響を受け
  文学を志す。ワーズワースやツルゲーネフなどを好んだ。
    1893年(明治26年)「欺かざるの記」を書き始める。同年10月、
  徳富蘇峰の紹介により佐伯・鶴谷学館の英語と数学の教師として
  赴任。翌年6月末日退職。佐伯滞在中、2度元越山に登り、頂上
  から眺める景色が尊敬する英国詩人ワーズワースの世界に似て
  いると言い、あまりの眺望の美しさに涙を流したと記されている。
  
   「元越山に登る記」の一節
   『・・・余らの最も愉快に感じている忘るるあたわざるは、頂上に
  達するやいなや、縹渺たる大海忽焉として双眸のうちに入りたる
  刹那、高遠なる大観に対したる瞬間、一種言いあたわざる感に打
  たれ、ほとんど涕泣せんばかりなりき・・・』
  
    
鶴谷学館の支出記録、哲夫(独歩)の月給25円 東京専門学校の同窓、田村三治に宛てた手紙
09年、山行目次へ