檜 原 山

 大分県中津市耶馬渓町、檜原山(ひばるさん)735m。檜原山は、テーブル状台地に円錐形の山を乗せた山容で、耶馬溪随一の秀峰と言われている(正平寺参詣のしおり)。詳しくは理解しない私だが、正平寺へは鳥居をくぐり、寺には「檜原まつ」(祭り)のみこしがあるなど、神仏混交の山である。登山の目的は、これらの歴史的な探訪と役の行者が修行した奇窟岩を目の当たりにすることであった。最後に行った千年かつらは、石牟礼道子著「常世の樹」に登場する。なお、耶馬溪町は2005年3月中津市に編入、演歌歌手の松原のぶえの出身地でもある。  09.03.08
 檜原山、麓からの眺め
登山口の池に映える紅梅  登山口の白梅、下界は落下中だが標高が高い故見ごろ   
登山口に通じる正平寺への鳥居 登山口、正平寺そば
押別岩をくぐる 針の耳、「よこしまな心」をあらためて
針の耳(右上写真)に架かる岩 上宮、本堂は山火事により明治21年焼失
檜原山頂、三等三角点がある 行者岩、下りコースは奇岩が多い、奥に窟がある
こうもり岩、ルビがなければ私には読めない、奥に窟がある 名前のいわれを知りたい
金刀比羅岩(こんぴらいわ) 倒木のため大神宮があわれ
千本かつら(桂)、株まわり10m、大分県天然記念物 千本かつらを後に700m戻り登山終了
  檜原山歴史探訪
   正平寺(右の画像は正平寺講堂)

  宗派:天台宗
  本尊:阿弥陀如来、釈迦如来、十一面観音菩薩

  崇竣天皇即位元年(587年)釈正覚上人が犬ヶ岳に
  長福寺を創立し、後寺を当山に移し、一寺を建立した
  のがこの山の開創。天平勝宝4年(752年)勅願所と
  定められ、以来山を檜原山、寺を正平寺と称するよう 
  になった。
  安和2年(969年)大講堂が建立され鎮護国家の祈願
  道場とし、豊前山岳仏教修験霊場として英彦山、求菩
  薩山とともに隆盛をきわめ、郡民崇敬の山であった。
  現在の講堂は、明治35年(1902年)に復興したもの。
  (正平寺、参拝のしおり抜粋)

    
    檜原まつ(神仏習合御田植祭)

  五穀豊穣を祈願する神仏習合の祭りで、700年の伝統。
  毎年4月上旬、正平寺寺領であった山麓の上川内、中畑
  福祉の3集落の信者によって執行される。

  講堂で法要の後、みこし3体の御神幸があり薙刀を持った
  僧兵、僧侶、みこしのお練りの後、御田植式がある。
  御田植式は水止め、田打ち、あぜぬり、しろかき等、苗代
  準備から種子蒔までの所作が古式豊かに行われる。

  現在は行われてないが、御田植式終了後マツ柱の行事が
  あった。約15mの柱に登り秘法を行う行事である。祭典の
  重要儀式とされ檜原まつの名はこれに由来すると言われて
  いる。  (正平寺、参拝のしおり抜粋)
檜原まつポスター、正平寺にて 檜原まつのみこし、25cm×12cmの格納庫見物穴から撮影
   この鳥居は山頂の檜原権現に寄進されたもの。
   島木の部分に佛を表す梵字七文字を彫刻している
   きわめて貴重なもの。1669年 建立。
   ※島木=上から二つ目、柱頭に乗っている横材
檜原山の梵字鳥居、文字は判然としない 六地蔵〔正平寺境内〕
庚申塔(こうしんとう)、道教に由来する石塔〔正平寺境内〕 宝篋印塔(ほうきょういんとう)墓塔などの仏塔に使用〔山頂〕
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