Photo五七五 (41~60)

HOM


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羊頭狗肉 腕は確かと 言うお客
 中国宋時代の出典に記された四字熟語・羊頭狗肉とは、店頭には羊の肉を掲げ、実際には仕入れ値が安く不味い狗(犬)の肉を売るインチキ商売のこと。『看板に偽り有り』だ。転じて見せかけは高級だが、実際は違っているとの意味。狗(犬)の肉は、唐の時代まで食用であった。
 ニトリの創業店は《似鳥家具卸センター北支店》の看板を掲げていたそうだ。「小売店にもかかわらず、卸としたのは品物が安いとの印象を与えるため。一店舗しかないのにセンターや北支店としたのは、お客さんが安心感を持つため。しかし、品質は間違いなかった.」と、創業者自身が語っていた。
 写真の文字は楽器修理店。店から出てきたお客さんに「低い技術力と書いてあるけど・・・」と質問すると、「とんでもない、腕が確かだから満足している」との返事だった。ニトリ創業店にしても写真の楽器修理店にしても羊頭狗肉とは意味が異なる。しかし、『看板に偽り有り』に相違ない。
2013.10月撮影、北九州市小倉北区  2013.10.17記

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  ガリバーも
   小人の眼には
   小さき顔


  五七五はアイルランドの風刺 作家ジョナサン・スウィットが 著した「ガリバー旅行記」を連想。 リリパット共和国に渡航した時 全国民の身長が常人の1/12 だった。15cmの小人がガリバーの長い 足元から上を見上げれば顔が 小さく映っていたのだ。元寸に対して何倍もの銅像には 見た目のバランスを保つよう上部 を大きくしている像もある。  ガリバー企業など巨大なものに ガリバーを冠した呼び方を聞くが、プロブディンナグ国(旅行記)では18mの巨人と遭遇している。  この写真で最初に連想したのは、 「あしながおじさん」だった。しかし、 これに因んだ句ができず無能さを 感じている。
  2013.09.16 記  
  2013.08月撮影、加賀白山  

58 五稜郭 総裁榎本武揚の 命脈は
 写真は高山に咲くハクサンイチゲ。この花を見たとき、下段の五つは五稜郭に陣取る兵士、中央上段は兵士を指揮する武揚を連想した。
 榎本武揚(たけあき、別名・ぶよう 1836~1908) 江戸末期オランダ留学した武揚の知識欲は旺盛で多岐にわたり習得する。やがて大政奉還、戊辰戦争勃発。旧幕府艦隊を率いての最終地は函館五稜郭。蝦夷共和国を樹立し、選挙により総裁となる。新政府軍との戦力差は明らか、敗戦降伏。武揚の才能を強く惜しむ蝦夷征討軍総参謀・黒田清隆の助命活動により処刑を免れる。
 特赦で出獄した武揚は新政府の一員となり、駐露特命全権行使、逓信大臣、文部大臣、外務大臣、農商務大臣を歴任。農商務大臣のとき、足尾鉱毒事件について、企業のみの責任にせず国が対処すべき公害であるとの判断を示した。時代は変わって水俣病、イタイイタイ病、カネミ油症などが確認された昭和。「もし、"昭和の武揚"がいたならば・・・」と、つくづく考えるところである。
2013.08月撮影、山形県鳥海山  2013.08.30記

57 ボロ家を 気にせず子育て 最優先
 小子化が問題となって久しい。戦後すぐのベビーブームだった昭和22年の出生率は、4.54。その後、昭和40年代に第二次ベビーブームがあったものの、昭和50年に出生率が2を割り込み、現在は1.4を下回っている。その要因を調べると未婚、晩婚、結婚しても養育費に出費がかさむため出産をひかえる、核家族化・・・。
 ここで人生の大先輩に戦後の多産時代を振り返ってもらた話しを記しておこう。『足りない米の嵩を補うため、麦や芋や豆などの混ぜご飯。そんな貧しさに耐え子育てを最優先していた。見栄や外聞を気にするどころではなかったし、いじめや虐待もなく、精神的には現在よりもはるかに豊かだった』  大先輩に話を伺い、筆者は思った。遅々として進まない小子化の改善策として、営巣するツバメに学ぶのも一案かと。筆者の努力代は少しもないが。
2013.06月撮影、北九州市の民家 2013.07.10記

56 我が雑念 蜘蛛の巣に付く ゴミ模様
 人間らしく生きる理想郷を目指した白樺派の作家・武者小路実篤(1885~1976)と同志は1918年、宮崎県の山村・木城村(現・木城町)に新しき村を建設。ダム工事により水田が水没することになり1939年、埼玉県入間郡毛呂村に移る。残った人達は少人数ながら日向新しき村として村を存続した。実篤・書の石碑(写真)は、ここ日向の地に据わっている。実篤をして理想郷を目指す理念の一つと推定した。
 筆者は「無心」について考えてみた。雑念を払う、一心不乱、一意専心、集中する、無我夢中などの言葉が浮かんだが、かなり違うように思える。「無心」はもっと崇高な意味に違いない。再び試行錯誤の末、凡庸な筆者が得た答は"無我の境地"だった。ところで、筆者には蜘蛛の巣に付くゴミのような雑念が脳裡に粘り付き、放出しようにもクモ膜に遮られてしまう。したがって"無我の境地"どころか一心不乱や集中するなどの言葉にもほど遠い。座禅を組み、警策で思いっきり打たれれば、少しは改善されるのかも知れないが・・・
2013.04月撮影、日向新しき村 2013.06.27記

55 ふらここや 思いの丈を 打ち明ける
 初めてのルートを登山中、休憩にもってこいの大木があった。大木には名前が付けられているだろうが、直感的にベンチの木と命名した。帰宅してパソコンにアップしたとき、ベンチより、ふらここ(ブランコ)の方がふさわしいと思った。
 相乗りしたふらここが激しく揺れては『思いの丈を打ち明ける』どころではなく、静かに揺れていることを連想する。「思いの丈」には喜怒哀楽いずれもの思いが該当し、単一あるいは重複するものもあるだろう。娘が楽しい「思いの丈」を語っている筆者の白昼夢は、『胸に収めていたけど、ジャンボ宝くじが当たったので築40年の自宅を改築してあげる。10年乗った車も買え替えてあげる』 万に一つも実現は不可能だが、そんな「思いの丈」の打ち明けは、絵に描いた餅でも楽しい。
2013.04月撮影、別府市鶴見岳 2013.05.04記 

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   叶わぬも

   汗する青春

   夢の中

 写真は福井県経ヶ岳登山道傍の 「アダムとイブ」、それにしても 実態を捉えた命名に感心する。
  
 アメリカの詩人サミエルウルマンは 「青春」の冒頭で『青春とは人生の ある時期を言うのではなく心の 様相を言うのだ』と記している。 しかし、気持的には確かに敬服す る思考だが、肉体的には老年期に入ると「アダムとイブ」(写真)の ような活力は淡くなる。故に古希が近い筆者は夢の中で 青春を謳歌したのだ。叶うなら、汗する青春に戻りたい。
 2013.04.11 記 
 写真は石川県在住イチローさん  

53 冬眠の 怪獣お目覚め ご挨拶
 怪獣の意味が漠然とは解せても、具体的には表現できないので調べてみると「正体の分からない奇怪な獣」とあり、映画に登場するゴジラやキングコングなどの架空の生命体はもとより恐竜、怪物もそのカテゴリーに含まれる。
 筆者が出会ったこの怪獣は、決して架空のものではなく現実に生きている怪獣だと思いたかった。雲仙普賢岳山頂直下、平成新山溶岩ドーム至近距離にこの怪獣が現れたのである。春の目覚めなのか、それともマグマの熱にうなされたのか、突然起き上がった姿が小生の瞼に焼き付いた。この怪獣は人間に好意的と見える。頭に近づけた6本指の足と口ぱくで登山者に歓迎の挨拶をしている。
2013.03月撮影、雲仙普賢岳 2013.03.28記

52 なに故に 北京原人 ここにある
 原人とは、現生人類(ホモ・サピエンス)の祖先でも類人猿でもなく、その進化過程の原人とされている。筆者が中学の社会科で習ったおぼろげな記憶では、北京原人、ジャワ原人と明石原人が脳裡に浮かぶ。ただ、この記事を書くにあたり原人についておよそ半世紀ぶりにおさらいをすると、1931年に明石市西八木海岸で発見された明石原人は、原人ではなく縄文時代以降の現生人類らしい。この人骨は1945年の東京大空襲によって焼失している。
 北京原人(ホモ・エレクトス・ペキネンシス)は、1926年スエーデン人の地質学者によって人類らしき歯を発見。1929年には、中国の人類学者が頭骨を発見する。1937年、日中戦争勃発。1941年、戦禍を避けるためにアメリカへ輸送中、太平洋戦争が始まり標本の全てが紛失、その行方は不明のまま。
 山に登り麓近くまで下りた時、頭も疲れていたのは確かだった。人骨らしきものを見た刹那、筆者は「北京原人の大発見」と叫んだ。次の刹那、夢うつつだったと我に返る。また次の刹那、百万%北京原人ではないと悟った。
2013.01月撮影、中津市八面山 2013.03.07記

51 道迷い 足掻きあがいて 幽霊道
 「登山者が下山予定時刻(日)を大幅に過ぎても下山しないので、地元の消防隊や警察官が捜索」の報道が、筆者の住む九州でも時々ある。何事も迷った時、あがけばあがくほど悪い方向に進むもので、冷静になり元の鞘に戻すことが肝要。かく言う筆者も登山中どうしようもない迷いが3度。元の道に後戻りぜずヤブコギの末、運よく登山道に出たが、長時間を要した。一つ間違えば、幽霊道から奈落に通じたのかも知れない。長い登山歴をして矜持が後戻りさせなかったことを反省している。
2012.12月撮影、NZDミルフォードトラック
(樹木に垂れ下がりはコプリンモス・蘇類)
2013.01.16 記

50 ひさし借り 毎年母屋を主張する
 写真をちょっと見しても五七調との関連は、たぶん理解できないだろう。丹念に見るとツタの蔓が大木にからまっていて、その葉が紅葉している。だから、紅葉の時期になると「自分が母屋」とツタが主張しているようだ。やがて落葉すると母屋を返上し、ツタはひさしに戻るが、また紅葉の時期がくれば母屋を主張する。    
2012.11月撮影、足立山麓 2012.12.02記

49 我が心 見透かしたるを我は見る
 上高地から登り始めると、約6時間の涸沢小屋。奥穂高岳や北穂高岳などの中継宿泊には最適な位置だが、通過あるいは小屋までで下山する登山者も少なくない。紅葉の時期や夏休みには、大勢の人で混雑する人気の宿。4月下旬~11月上旬の営業、冬季は閉鎖。この小屋のすぐ下方にはヒュッテもある。
 筆者は奥穂高岳からの下山途中、休憩のため立ち寄った。筆者はコースタイムをメモ代わりに写真データを活用しているので、到着・出発時には必ず撮影する。カメラを構えた瞬間、自分の心を見透かしたような筆者がいたことに驚く。なんと"ご乱心"のことか・・・
 2012.09月撮影、北ア涸沢小屋 2012.10.12記

48 待ち侘びて 月見団子のつまみ食い
 月見の供え物は、十五夜にちなんで団子15個、果物、野菜、秋の七草。月が現れるのを待ちながら、団子をつまみ食いする筆者はなんとも卑しい。
 名月とはこの季節、中秋の名月を差し、陰暦8月15日。太陽暦での今年は9月30日。写真を撮ったのは新月に近い9月中旬。暦を見ずに句を詠んだのは、その少しあと。月の状態や日時のズレについて、「Photo五七五」では少しも抵抗を感じない。写真から連想に値するか否かが肝要なのである。また、『・・・団子・・・月見・・・』と詠んでいながら、その物体が写真に無いのがミソ。まあ、独断と偏見の「Photo五七五」に他ならないので。
 名月の句でまず浮かぶのは小林一茶の『名月をとってくれろと泣く子かな』 山ガールや中高年の登山が盛んになったとは言え、一茶の句のような自然相手の楽しみ方が減少していると思う。月を愛でる人も少なくなったに違いない。 
2012.09月撮影、みそこぶし山 2012.09.22 記

47 高原の 風さわやかにアルプホルン
 アルプホルンとは、スイスを象徴する金管あるいは木材をくり貫いた筒の長い楽器。そもそも高山で牧草地間の意思伝達に利用されていた。アルプスの牧童達は、身の周りにある素材で楽器を作ったと伝えられている。
 北アルプス北部、爺ヶ岳南峰を稜線まで下った山荘近くから早朝撮影。遠景は、左から立山・別山・剱岳。そして、手前に昨日宿泊した種池山荘。
 この景色をモニターに写した時、筆者の脳裡には羊の群れが通り過ぎ、遠くからアルプホルンの音色がさわやかな風とともに伝わってきた。赤い屋根は、牧童が寝起きする小屋。朝早く牧童は羊を連れ牧草を求めてこの小屋を出て来たのだ。  
2012.08月撮影、北ア種池山荘近く 2012.09.04記

46 それぞれの人生に 新たな気持
 北アルプス北部、後立山の盟主・鹿島槍ヶ岳を背後に標高2400mの冷池山荘。この展望台に立ち、筆者達は午前5時10分の日の出を待ちかまえていた。多人数で窮屈な部屋には未だ睡眠を貪っている人もいる。その人たちは幸か不幸か? 多分、高台に立つ人より幸せなのかも知れないし、そうでないのかも知れない。人の過去は千差万別、喜びあり、悲しみあり・・・の紆余曲折が一般的。しかし、雲海の切れ目から陽光が射すと皆過去を忘れ、新鮮な気持ちを抱いたように思えた。ありきたりだが、若者は学業や仕事への抱負を、高齢者は健康と家族の幸せを。このシチュエーションにおて金儲けだけを思う人は希であろう。
2012.08月撮影、後立山・冷池山荘  2012.09.04記

45 まか不思議 瓢箪から駒もうなずける
 節電の夏、原子力発電所の停止により電力の受給が逼迫している。資源エネルギー庁の「家庭の節電対策メニュー」によると、使用量のうちエアコンが過半数を超えているグラフがあり「設定温度は28℃を心がける」とある。もし、我家に"金のなる木"があれば、エアコンと言わず全てのブレーカーを切り長期間避暑に出かけるのだが、それはままならずプランターにゴーヤーを植えグリーンカーテンを施した。
 ふと庭木を見上げるとゴーヤーがぶら下がっている。"金のなる木"にはほど遠いが、これぞ"瓢箪から駒"だと思った瞬間、上記の五七五が生まれた。しかし、その表現は、筆者のつたない国語力故に矛盾していないかと広辞苑を紐解く。"瓢箪から駒"とは①意外な所から意外なものの現れることのたとえ。②ふざけ半分のことから事実としてしまうことなどにいう。③道理の上からあるはずのないたとえ。ま、「ザックばらん」な筆者に免じて矛盾しないことにして頂こう。
2012.08月撮影、我家の小庭 2012.08.03記 

44 エリートの下界を何と思ふかや
 ここで言うエリートとは代議士や官僚、会社役員、殿様と藩の重役を差し、裕福な家庭に生まれ育った人。中でも下界に住む庶民の貧乏を解さない雲の上の人。筆者はもちろん下界に住む人間。しかし、雲の上に上がる気持はなく、努力もしなかったので雲の上の人を良くも悪くも赤裸々には評価できない。
 江戸時代初期と末期~明治初期に筆者の尊敬する藩の重役がいた。前者は上杉氏の家老・直江兼続。後者は長岡藩の大惨事・小林虎三郎。直江兼続は、移封された米沢城下を流れる最上川上流に石を積み川の氾濫を防ぐとともに新田開発を行い、表高30万石を内高50万石に高めた。小林虎三郎は、窮乏した藩に贈られた米百俵を「百俵の米を食えばたちまちなくなるが、教育に充てれば、明日の1万、百万俵にもなる」と、藩士には与えず、米を売却し学校建設の費用にした。兼続も虎三郎も将来を見据えた、藩と民を慮る改革であったのだ。時は平成時代、雲の上の人は、この精神を理解しているだろうか。「米百俵」を就任演説に引用した元総理もいたが・・・
2012.06月撮影、九重・星生山よ2012.07.08記 

43 願わくは友の御霊も光あれ
 早朝の国東半島は、濃い霧に包まれていた。前泊ホテルより半島中央北部の中山仙境登山口に着くころは、陽光を遮る霧は消えていた。登山口真向かいの寺(写真)は、国東六郷満山末寺本寺の古刹・霊仙寺。登山後に立ち寄る。
 石碑「照)一隅此則國寶」は天台宗の開祖・最澄の言葉。干(千)について、干満の「」か数字の「」かは区別し難い文字、まして毛筆では・・・。近年まで前者であったとのことだが、後者とも読めることから仏教界で論争になったと言う。前者と後者では意味が違ってくるからだ。即ち、干満の「干」であれば『社会の一隅を照らすならば、この人こそ国の宝』 数字の「千」に置き換えれば『一隅にありながら千里を照らす者こそ国の宝』
 筆者の親友が天国に旅立った。同期入社で同じ職場だった。数年後、別々の事業所となっても、親しく付き合っていた。その友の訃報を受取った時、ショックは隠せなかった。2ヶ月後、石碑を読んだ時、友がいる世は今朝の国東半島に見る霧に包まれた場所でなく、陽光が輝いて欲しいと願ったのだ。
 「照)一隅此則國寶」は、生きている人のこと。筆者の連想は、あの世の人が対象。180度矛盾し、「」も「」も無関係だが、Photo五七五の連想に制約はない。「照」の一文字のみの関連で十分なのである。
2012.05月撮影、豊後高田市霊仙寺2012.06.21記 

42 天に伸ぶ 石の上にも30年
 故あって「・・・石の上にも30年」と記したが、本来の諺「石の上にも3年」を正確に知ろうと調べてみた。---冷たい石でも3年間座り続ければ温まる。転じて我慢強く辛抱すれば、必ず成功する---と、理解した。近年、求人倍率が低く就職難にもかかわらず苦労して就職していながら、短期間のうちに辞めてしまう人が多いと報道されていた。最低でも3年間は辛抱して欲しいものだ。そのうち「待てば海路の日和あり」なのかも知れない。
  陶磁器、金属加工、木工、編み・曲げ・塗りなどの物づくりで、一人前の職人になるにはおよそ10年の修行が必要らしい。名人と言われる人は、コツコツと努力の積み重ねが30年以上に相違ない。
 無機質の上に立つ写真の木は、登山者から「根性の木」と称されている。30年にわたり栄養分も摂取できず、風雪に耐えて天に伸びる青葉を見ると勇気が湧いてきた。2012.05月撮影、平尾台 2012.05.08記 

41 はみ出して山下清の旅すがた
 装飾灯の電球がはみ出した様を見て筆者は、1980年テレビドラマ芦屋雁之助主演「裸の大将放浪記」が浮かんだ。モデルとなった山下清(1922~1971)は言語障害を伴う知的障害のため、千葉市の施設「八幡学園」に入所、「ちぎり細工」の才能が磨かれた。1940年から15年間、放浪の旅に出て各地の風景を貼絵にしている。花火が好きで「長岡の花火」は特に著名。日本のゴッホあるいは裸の大将と呼ばれていた。
 筆者の独断推量だが、知的障害が故に常識に棹させない純真さが芸術性を昂揚せしめたと思われる。凡庸な我々は世間体にとらわれ、知らず知らず規定概念にこだわっているのかも知れない。したがって、双眸でとらえた物体を赤裸々に表現できないのかも。
2012.04月撮影、小倉南区安部山公園 2012.04.11記 

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