飯野山(讃岐富士)城址

 新日本百名山・飯野山は裾野が美しく讃岐富士と呼ばれている。浸食された山が台地状になり、さらに浸食が進み現形になったとのこと。この美しさに昭和天皇(皇太子時代)、西行法師、高浜虚子によって詩歌が詠まれている。琴平に2泊、それまで名物の讃岐うどんを食していない。うどん屋は午前9時過ぎに開店し午後3時に閉まるのでチャンスがなかったのだ。ようやく早朝開店の店を探し出し留飲を下げることが出来た。よって飯野山がより楽しく登れたことに間違いなさそう。 2023.03.16
登山口A10:10~10:50 3合目11:00~12:00山頂12:20~13:00 3合目~13:20登山口C
 飯野山(讃岐富士) 2日前、金刀比羅宮奥社付近より
 前泊は琴平 朝食は記念の味、こんぴら(讃岐)うどん 石垣の高さに驚く丸亀城 JR丸亀駅より徒歩15分
 登山口A 丸亀城付近労災病院よりタクシー(1630円) 飯野山頂を見上げる 登山口の標識が方々にある
 登山口B 4月22日は標高422mに合わせている 登山口C 本格的に山に入った感じ
 3合目までは広い山道だが油断ならない  3合目、休憩 ここまで40分
5合目付近 消防関係の人とすれ違う 8合目 山頂まで410mと210mの分岐、410mを登った
広い山頂だが視界はきかず 昼食 山頂 昭和天皇となる皇太子の歌碑、1922年吟詠
出合った人と下山開始、丸亀駅まで車に乗せてもらった 遠くに瀬戸大橋、手前に角山(つのやま) 9合目より
午前休憩した3合目を通過、右は坂出市方面 自販機、トイレ等の建物 登山口C付近だがゴールとする

  【四国行きの主目的はルーツ探訪】
 
3月14日に金刀比羅宮から大麻山(象頭山)に登り、16日は丸亀駅から飯野山(讃岐富士)に登った。しかし、そもそもの目的ではなく四国に渡るのならば、山にも登ろうと考えた行程であった。両山登山中日の15日、徳島県三好市山城町、標高460mの山頂城址を目指す。即ち、我等親族のルーツである田尾城址探訪が主目的であった。、ちなみに「山城」は町名の由来にもなっている。南北朝時代、南朝側の小笠原頼清は新田義貞の弟・脇屋儀助と呼応して田尾城を改築。戦国時代に至り土佐の長宗我部元親が侵攻落城、城址・大西頼信は戦死した。一族は山を下り田尾姓を名のる(四国88ヶ所66番札所・雲辺寺過去帳)。その後、伊予川之江(現在の四国中央市)に定住。昭和初期、当時の小倉市に再移住した。なぜ、田尾城址が自分のルーツなのか?明確な物理的根拠はない。ただ、自分の父親を含む川之江生まれの親族(今は全て故人)が「お前のルーツだよ」と話していた。先祖から伝えられてきたのだろう。2023.03.15
 
 タクシー下車の国道出合すぐ 城址へと地図を確かめる  茶畑の老人に再度コースを確認
 道の左右は急勾配 城址まで車には1台も出会わない  ルーツの田尾城址登城口 石柱には「古戦場田尾城址・・・」
 「いく度も 花散りかわり 田尾城址」 城址登城口 城址へ向かう 南城館跡まで約200m、北城跡は残ってない
 南城館跡すぐ下 この辺りに柵があり敵の進入を防ぐ  南城館跡 周囲はツツジの老巨木、以前は毎年花祭り
 国道と鉄道橋、川口駅へは左折 銅山川が吉野川に合流  土讃線阿波川口駅(無人) 町には狸遺跡と狸伝説多数
山行記録2023   山行記録(総合)