『平成筑豊鉄道沿線の見所を歩く』と銘うった「あるきんぐと仲間達」主催のウォーキングに参加した。行橋・正八幡宮を出発、みやこ町豊津、犀川を経由して田川郡赤村の源じいの森温泉に至る約25Km。この趣旨は、景色・建造物・遺構に触れることは勿論だが10月に行われる「行橋〜別府100Kウォーキング」(小生の参加は?)の50km練習会が2度予定されており、そのトレーニングを兼ねている。雨の中、多数が参加.。名所名所で主催者アカグマ会長のねんごろな説明にうなずく。ゴール地点の源じいの森温泉に到着した時も雨が降り続いていた。このウォーキングで小生が特に興味を持ったのはみやこ町豊津地区。歴史の土地と聞いていたが、実際に歩いて文化面を含め、その土地柄をさらに深めた。 13.06.02 |
集合場所の行橋・正八幡宮、860年創建 | 40名が輪になりミーティングと自己紹介 |
8:30 行橋・正八幡宮を出発 | 今川河川敷歩道、正面の橋は日豊本線 |
建設中の東九州自動車道 | 中西輝磨歌碑、みやこ町八景山公園(歌碑、古墳多い) |
10:30 みやこ町豊津の花菖蒲園 | 見頃はあと10日くらいまでとのこと |
← 【惣社八幡神社】 古代において、豊前国内に鎮座するすべての神々を 集めて祀ったことに由来する神社で、隣接する豊前 国府との関わりも深い神社。 古代の行政単位「国」の長官として中央から派遣された 国司が認知に赴任後、最初に行うのが国内に鎮座する 神社を巡り、平安を祈願することだった。(国司巡拝) しかし、平安中期以降はその労を省くため、国府に近い 場所に国内神社の神々を「総て」集めて祀る神社を設け それを参拝することで巡拝に代えるようになった。 これが惣社(総社とも標記)で、この神社の名称はこの ことに由来している。 みやこ町教育委員会(抜粋) |
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惣社八幡神社 | |
豊前国府跡公園、菅原道真などの歌碑がある | 同左 万葉集・額田王 |
【豊前国分寺と三重塔】 豊前国分寺は、奈良時代の天平13年(741)聖武天皇の 勅願により全国60余国の国ごとに建立された国立の寺院。 従って国家の平安を祈る道場であったが、同時にまた豊前 の国の学問や文化の中心としての重要な役割を果たすもの であった。 天正年間(1573〜92)大友氏の兵火によって、すべての 塔堂が焼失したと伝えられている。復興は慶安年間(1650) に始まり元禄年間(1700頃)に塔を除く現在の寺観をほぼ 完了した。 明治19年(1886) 時の住職が三重塔の建立を発願10年 の歳月をかけて完成した。昭和27年(1954)の落雷のため 大破、修理するもその後の老朽のため、昭和60年(1985) 豊津町(当時)は根本的な解体修理による復元を計画。県の 補助金、町民や企業などの寄付金を得て総工費2億円をか けて昭和62年(1987) 修復工事完了。 「昭和62年5月三重塔説明石」より抜粋 |
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11:40 豊前国分寺(高野山真言宗) | |
豊前国分寺・三重塔 | 昼食休憩後、三重塔をあとにする |
【育 徳 館】 ⇒ 1758年小倉藩主小笠原忠総の命により藩校「思永斎」開校 後に「思永館」と改称。1866年長州との小倉戦争で小倉城 思永館とも焼失。1869年藩庁を錦原(現・みやこ町豊津)に 移し「育徳館」と改称、1870年開校。1879年福岡県立豊津 中学(旧制)と改称。1948年学制改革により福岡県立豊津 高校となる。1949年豊津女子高校を統合、男女共学。 2003年福岡県立育徳館中学開校、翌年一期生入学。中高 一環教育が始まる。2007年福岡県立育徳館高校に改称。 〔主な卒業生〕 陸軍元帥、大企業創業者、大臣もいるが文学関係のみ記す ・堺 利彦(1871〜1933)思想家、歴史家、小説家 ・小宮豊隆(1884〜1966)独文学者、漱石「三四郎」のモデル ・葉山嘉樹(1894〜1945)プロレタリア作家(右下画像) ・鶴田知也(1902〜1988)小説家、第3回芥川賞受賞 〔黒 門〕↓ 藩校「育徳館」の正門。一時苅田町の真念寺山門となって いたが、1970年、現在の位置(学校に隣接)に移設。 |
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育徳館遺構・黒門、東大の赤門に対して | 育徳館卒業生・葉山嘉樹歌碑(八景山公園) |
13:30 犀川駅(平成筑豊鉄道田川線) | ←塔の内部、樹齢400年のヒノキ |
ソフトボール大のネギ坊主にびっくり | 安全のため?車道を通らずショートカットの畦道 |
田原トンネル 明治中期開通の(現)平成筑豊鉄道 | 当時拡幅計画があったため継ぎ目を残した |
蛍橋 昨年(H24)豪雨の跡が見える | 源じいの森、蛍橋を渡り少し登るとすぐ見える |
15:50 ゴール地点 源じいの森から少々離れている | 入浴休憩の後、平成筑豊鉄道に乗り帰途 |