幻の童謡詩人
金子みすゞ

 かつて女優吉永小百合を称して“女裕次郎”と言われたことがあった。意味は違えど筆者は、金子みすゞを“女啄木”とたとえたい。才気煥発、ともに26歳で夭折、恵まれない晩年がその理由。筆者は10歳代後半から20歳代にかけて石川啄木に傾倒していた。当時の記憶が、みすゞと重なって思い出される。より不幸だったのは、みすゞ。離婚した夫に愛娘を渡さなければならなくなった悲しみが人生を終える主因(後述)となっている。  08.05.05取材
 金子みすゞ
 1903 明治36年 山口県仙崎(現、長門市)に誕生 本名テル
 1923 大正12年 西條八十「若き童謡詩人の中の巨星」と称賛
 1930 昭和05年 2月27日離婚、3月10日死去

  日本の童謡の最盛期、大正後期に彗星のようにあらわれた美しい 詩人 金子みすゞ。26歳の若さでこの世を去り、いつしか「幻の童謡詩人」と語り継がれるようになった。半世紀をへた昭和57年、矢崎節夫氏の《みすゞ探し》の結果、書き3冊の童謡集が、弟上山雅輔氏の手元にあることが わかり『金子みすゞ全集』として出版、』みすゞ甦りが始まった。この世のすべてにあたたかいまなざしを向けたみすゞ作品は、多くの人の心に深い感銘を呼び、今、驚くほどの速さで日本中に、そして世界中に広がっている。       (金子みすゞ記念館パンフより 
みすゞ記念館入口、父死後の書籍・文具店金子家 みすゞ記念館本館
 金子みすゞ記念館が出生地の山口県長門市仙崎に開館したのは平成4年。だが、筆者がみすゞを知ったのは6年後。いつしか尋ねてみたいと思って10年が過ぎた。それほど興味がなかったのかも知れない。長門市に用件があり、2時間の余裕をつくって記念館の人となった。来る前と帰る時では筆者のみすゞ感は大違い。すっかりみすゞに魅せられてしまった。ここは、ついでの用で立ち寄るものではなく、みすゞ所縁の地を散策したりして、丸一日をかけなければならない。
金子文英堂入口すぐに置かれた書籍 みすゞの書斎
金子文英堂の帳簿類 実弟(下関上山文英堂へ養子)コーナー
 若き童謡詩人の登壇
 1923年(大正12年)、金子みすゞというペンネームで、雑誌『童話』『婦人倶楽部』『婦人画報』『金の星に』に初めて書いた童謡を投稿した。みすゞの投稿した作品はすべて掲載されている。『童話』では、撰者の西條八十をして「金子さんの打出の小槌と『お魚に心を惹かれた」と言わしめている。1926年(大正15年)になると、『日本童話集』に北原白秋、西條八十、野口雨情、三木露風、竹下夢二、泉鏡花、若山牧水などと共に、女流詩人としてはただ一人みすヾは選ばれ『大魚』『お魚』が掲載された。童謡を書き始めて、わずか3年目、この頃がみすゞにとっては一番幸せな時期であった。 (童話作家矢崎節夫氏の解説より)
みすゞが投稿した童話誌(本館、ガラス戸の中)          打出の小槌
    
        打出の小槌を貰ったら
        私は何を出しましょう。
      
        羊羹、カステラ、甘納豆
        姉さんとおんなじ腕時計、
        まだまだそれより真っ白な
        唄の上手な鸚鵡を出して、
        赤い帽子の小人を出して   
        毎日踊りを見ましょうか。

        いいえ、それよりお話の   
        一寸法師がしたように
        背丈を出して一ぺんに
        大人になれたらうれしいな。  
           お魚

        海の魚はかわいそう。

        お米は人につくられる、
        牛は牧場で飼われてる、
        鯉もお池で麩を貰う。

        けれども海のお魚は
        なんにも世話にならないし
        いたずら一つしないのに
        こうして私に食べられる。

        ほんとに魚はかわいそう。      
          大漁

        朝焼小焼だ
        大漁だ
        大鰮の
        大漁だ。
        
        浜は祭りの
        ようだけど
        海のなかでは
        何万の
        鰮のとむらい
        するだろう。
      
当時の柱時計(止まっている) 金子家が使っていた井戸、奥は厠(再現)
 結婚、離婚、そして自殺
 金子みすゞの結婚は、母親の再婚者である下関市の上山文英堂店主によって進められ、相手は文英堂の手台格だった。1926年(大正15年)2月結婚。11月長女ふさえ誕生。夫は商売人にありがちなリアリスト(筆者類推)であったため、みすゞの作詩活動を理解せず、ついには童謡を書くことを禁じている。さらに文英堂店主との確執もあり、遊郭遊びに没頭した。傷ついたみすゞは離婚を決意、1930年(昭和5年)2月離婚。ただ一つの離婚条件は、みすゞが娘を引き取ることだった。一旦は夫もこの条件を受け入れたが、何度も「娘を返せ」と言ってきた。戸籍上はすでに母親ではなかったので、娘を夫に渡さざるを得ないのが当時の因習だった。娘を渡す前夜みすゞは3通の遺書をしたため、カルチモンを飲み、永遠の眠りについた。離婚後10日のできごとである。夫宛の遺書には「あなたがふうちゃんを連れて行きたければ、連れて行ってもいいでしょう。ただ私はふうちゃんを、心の豊かな子に育てたいのです。だから、母が私を育ててくれたように、ふうちゃんを母に育ててほしいのです。どうしてもというのなら、それはしかたないけれど、あなたがふうちゃんに与えられるのはお金であって、心の糧ではありません」 (矢崎節夫氏の解説参照)

 前述、「夫は商売人にありがちなリアリスト」と筆者が類推した意味は、目先の金銭のみに拘泥する人物のこと。そこに心の豊かさはない。みすゞの心境とは相いれないものがあった筈。筆者は、この世のすべてにあたたかいまなざしを向けた金子みすゞの世界に少しでも浸ってほしいと、特に子を持つ親に願いたい。
みすゞ記念館に飾られたみすゞを偲ぶ俳句
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