Photo 五七五(01〜20)
20 子に厳し 孫には甘く 角を摘む  2010.12. 10 記
 祖父・祖母、子(親)、孫(子)について筆者は色眼鏡をかけ藪睨みしてみた。いつの時代も祖父・祖母にとって孫は可愛いもの。一方、子には厳しさがなければならない。それも時代の流れとともに接しかたが異なっているように思える。明治、大正生まれは、孫に対し甘さの中に筋が通っていて躾がともなっていた。昭和20年代以降の平和な時代に生まれた爺・婆は、物品を与えて孫の感心を惹こうとし、孫にはすこぶる甘く角を隠している。子に向かっての前者は、威厳を保ち頑固であった。後者の子育ては、それを踏襲しているが、“空気”が読めず、子の逆襲を食らったりもする。その爺・婆の子(親)は、威厳も頑固さも消えつつあり、孫(子)への叱りがともなう躾は十分なのか? 近年、若者の精神力低下がはなはだしく些細なことでキレたり、人の痛みを感じなくなっている傾向が目立つ。 2010年11月撮影 北九州市安部山公園

19 年金プアー このひと時の リッチマン  2010.11. 10 記
 英彦山登山の帰りに最近整備された桜並木沿線、先月オープンした道の駅に目的をもって、わざわざ寄り道をした。この館の目玉は1億円をかけた自慢のトイレ。壁には花模様の大きな陶板が貼られていた。写真左上は、鏡に映る別部屋。凝った便器に数人が用を足していた。女性用はもっと凄い凝りようとのこと。手洗い鉢(洗面器)は隣町の上野焼。「我家にもつけたいと思い値段を訊けば一つ10万円」と、来館者。目的を達してトイレを出るとき、最高級ホテルを利用した気分だった。最高級ホテルは、筆者にとって“高嶺の花”。なお、断るまでもなく年金プアーとは筆者のことである。   2010年11月撮影 福岡県大任町道の駅

18 ヤワラちゃん わらじ一足(ひとつ)に 赤絨毯  10.11.10 記
 女子柔道で凄い成績を残したヤワラちゃんこと谷(田村)亮子は、世界柔道選手権6連覇、オリンピックでは金銀メダル各2、銅1を獲得している。1975年生れ、福岡県出身。ヤワラちゃんの愛称は、テレビ放送された浦沢直樹の柔道漫画「YAWARA!」から付けられたもの。15歳の年、福岡国際に優勝したとき、私は田村(当時)の存在を知り、同県人でもあることから応援を続けていた。

 2010年7月に行われた参議院選挙に、ヤワラちゃんは比例区候補として出馬表明、柔道についてもロンドンオリンピックで金メダルを目指すと意欲を示していた。この報道に「二足のわらじは無理」との意見が聞かれ、私も同じ意見だった。かくして35万余票を獲得して議員となり赤い絨毯を踏むことになった。3ヶ月後、スポーツ振興に全力投球することで、柔道引退を表明。二足のわらじは議員単独となった。私のヤワラちゃん応援はストップしたが、赤絨毯をすり足で歩いてでもスポーツ振興に1本勝ちの技を示して欲しい。  2010年10月撮影 九重山系林道

17 子宝を 願い願われ 今度こそ  2010.10. 18 記
 〈 スッポン 〉
 爬虫類綱カメ目スッポン科に分類されるカメ。ビタミンA、B1が多い。甲羅を乾燥させ粉末にしたものは男性精力剤。スッポンエキスは不妊症などの婦人病の補薬。生血の日本酒割は、いかにもスタミナがつきそう。

 〈 ヤマメ(山女魚or山女) 〉
 サケ目サケ科に属するサクラマスのうち降海しない河川残留魚。小さなものは唐揚げ、大きなものは塩焼きが美味い。

 結婚後5年、子宝に恵まれない若夫婦がいた。子供が欲しくてたまらず、思い悩んでいた。夫婦の親も「早く孫の顔が見たい」が口癖。何度となく寺社に祈願しているが、叶えられない。2度目に参った寺の住職は夫婦の顔を覚えていて「それなりの努力をしなくては、御仏も手を差し伸べることはしません。君たちは健康には見えない。まず体力づくりが肝心です」住職の助言通り、夫婦で登山を始めて2ヶ月、今日は登山後、スッポンの効力を信じ、川宿に泊ったのだ。夫も、山女(山ガール)の妻も溌剌とした容姿がうかがえた。神仏は夫婦の子宝を願う努力をないがしろにしないだろう。(筆者創作)     2010年10月撮影 湯布院

16 「出ましたね」ゲゲゲの女房「ありがとう」 2010.09.30 記
  NHK朝のドラマ「ゲゲゲの女房」(10/9/3〜9/25)は「ゲゲゲの鬼太郎」の作者・水木しげるの妻・武良布枝の原作。
 布美枝(ゲゲゲの女房・松下奈緒)は、貸本漫画家・妖怪大好き人間の水木茂(向井理)と見合した5日目後に結婚。貸本漫画業界の斜陽により質屋通いなどを余儀なくした貧しい生活であった。やがて大手雑誌社から執筆の依頼がくるようになり、忙しくなった茂は水木プロを設立する。そんな茂にもスランプが数ヶ月続く。茂の前に妖怪が現れなくなったからだ。ある日、小学生の遠足に招かれた茂は川辺で妖怪と出会う。急ぎ帰った茂は、また元のように売れる漫画が書けるようになった。・・・そして、水木プロ20周年記念謝恩パーティー。布美枝は、あらゆる人へ感謝の気持ちで一杯だった。勿論、妖怪にも「ありがとう」と言ったに違いない。

 「ゲゲゲの女房」脚本:山本むつみ
 水木プロ20周年記念謝恩パティーにおいて、それとなく手塚治虫とおぼしき人物を瞬間的に2度登場させたのは、脚本家のセンスなのか。好感。

 主題歌「ありがとう」:いきものがかり
 “ありがとうって伝えたくて あなたを見つめるけど 繋がれた右手は・・・”
そう言えば、水木しげるも茂も戦争で左手を失っていたんだ。(小生のこだわり)
「ありがとう」を唄うグループいきものがかりは、妙な名称だと思って調べてみると、メンバーの水野と山下が小学生のとき、生き物係(金魚の世話)だったとのこと。
 2010年09月撮影 延岡市・比叡山のキノコ

15 秘境宿 地球に優しさ 人に愛  2010.08. 17 記
 秘境宿は苗場山中腹、標高1000mの赤湯温泉。麓のバス停から徒歩4時間、タクシーが運行できる林道終点からは1時間半の場所。電気、ガスはもちろん通じていない。テレビなし、携帯電話も圏外。客間照明はすべてランプ。宿泊者の食事場所と経営者夫妻の居間を兼ねた部屋のみ薄暗い電灯が灯っていた。この電源は小さな発電機によるもので主たる目的は麓との無線連絡用とのこと。暗くなると行燈の明りを頼りに行く露天温泉は宿から2〜3分の位置にあり、入浴中も行燈を灯しておく。夕餉のあと就寝までの間、何をすれば時間がつぶれるのか? 会話か露天風呂以外には、なす術はなさそうだ。我々は宿夫妻が話す宿のことについて耳を傾けることにした。これがまた面白い。平成元年〜2年に宿を建て替えた時、ヘリコプターで建築材料を運搬したとか、皇太子が独身時代に訪れたとか、“電気”冷蔵庫の代わりに畳3畳ほどの小屋の屋根に冷たい岩清水を流して冷蔵室にしている・・・。そして「あなた達が先ほど食べたご飯は、魚沼産のこしひかりと岩清水とをマキで炊いたもの」なるほど、どうりで美味かった筈。

 随分昔に観た映画なのか、いや小説だったのか定かではないが、私は、秘境宿に夫妻が泊ったシーンが思い出された。定年退職を向かえたばかりの夫は「長い間のお勤め御苦労さま」と妻が計画した旅だと思っていた。ところが妻は、結婚当初から家庭を疎かにする自己本位の夫に離婚を決意していたのだ。夫の定年を機に、別れの旅だった。夕食後、暗くなれば混浴となる露天温泉に2人で出かけた。浴槽には行燈の優しい光が揺れていて、嫌なことなど忘れてしまう。宿に帰った2人は退屈しのぎにランプの明かりの下、恋愛時代以来の出来事を語り合った。最後に夫は「長い間、苦労をかけたけど、これからは俺を気にせず存分に人生を楽しんで欲しい」と。妻は涙線を熱くし、久しぶりに夫への愛を感じた。翌朝、夫と妻は手を取り合って秘境宿を後にした。     2010年07月撮影 赤湯温泉(苗場山登山)

14 細かさに 欠伸こらえる 部下もいる  2010.08. 16 記
 現役時代の私は、不真面目な社員だった。上司のあまりにも細かい指示に「どうせまた修正があるのだから」と、体裁を整えるだけでコーヒータイムとしたものだ。細かさ故に大局感がずれている人も多くいる。しかし、現役時代を振り返ってみると、上司の細かさは的を射たものであったのかも知れないが、私には馴染めない。一方、アバウトな上司に対しては、細かく検討する気構えがあった。細かい上司には、部下は大雑把になり、アバウトな上司に対しては細かくなる傾向があるのも否めない。どちらかと言えばアバウトの上司の方が部下の成長が早いような気がする。

 写真は東京都・高尾山頂にある標高標識。どんな意味があるのかは知らないが、599.03mとは、細かすぎる。関東は地震の発生が多く、3センチが2センチになったり、4センチになったりしないかと気をもむ。私は300座以上のピークを踏んでいるが、センチメートル単位の標高表示に初めてお目にかかった。細かい上司は3センチを褒めたたえ、アバウトな上司は「600mでいいよ」に違いない。  2010年07月撮影 高尾山

13 スイッチオン 浦和レッズかと思ったよ  2010.07.21 記
 福岡ソフトバンクホークスの「鷹の祭典2010」がヤフードームで始まった。今年は、ホークスの応援歌「いざゆけ若鷹軍団」の歌詞をイメージした「カチドキレッド」を基調色にしている。対する埼玉西武ライオンズは、太平洋クラブ時代の復刻ユニホーム。
 
〔ソフトバンクホークス〕
1988年11月  南海ホークスからダイエーホークス、本拠地福岡市へ移行
2005年01月  ソフトバンクホークス
〔埼玉西武ライオンズ〕
1972年11月  西鉄ライオンズから太平洋クラブライオンズ
1976年10月  クラウンライターライオンズ
1978年10月  西武ライオンズ、福岡市から埼玉県所沢市に移行
2008年01年  埼玉西武ライオンズに名称変更

 「ソフトバンクは南海、ライオンズは西鉄。だから俺は西武を応援する」と意固地な人もいるようだ。しかし、入場者全員にプレゼントされたレプリカユニホームでスタンドが真っ赤に染まっていたため、西武の応援は皆無に見えた。
 第2戦7回ホークス攻撃中、元ダイエーの47歳・工藤投手のリリーフ登板のアナウンスがあった時、観衆がどよめく。当時の背番号は47、完封したホークス杉内投手の背番号も47。47の偶然が面白い。  2010年07月撮影 TVQ

12 ブブゼラを 鼻にたくせし 白き星  2010.07. 02 記
 “ぞうさん、ぞうさん、お鼻が長いのよ” 鼻の長さだけではアフリカ象かアジア象かは見分けがつかない。端的に分かるのは、アフリカ象は耳が大きいこと。気性は荒く、人間に慣れにくい。が、私は2010W杯サッカー・アフリカ大会前、象さんに願いごとをした。「鼻で支えている透明の○を岡田JPNの白星に変えて欲しい」と。
 ブブゼラは、スタジアムホーンと呼ばれるチアホーンの一種。サッカー等の応援に用いられる南アフリカの楽器。

 ここで日本チームにおけるW杯サッカーを振り返ってみよう。
 1993アジア最終予選、カタール・ドーハ、オクト監督。対イラク戦、ロスタイムに同点にされた結果、得失点差で韓国に抜かれ本大会の出場はならなかった。いわゆる“ドーハの悲劇”である。
 1998フランス大会、岡田監督。日本代表に加わると思っていたカズ(三浦和良)を岡田監督は外し、唖然とする。一次リーグ全て黒星。
 2002日韓共同開催。トルシエ監督。一次リーグを突破(ベスト16)するも、決勝リーグでトルコに1対0で惜敗。
 2006ドイツ大会、ジーコ監督。1分2負で予選敗退。決勝戦は、1対1のままPK戦でイタリアがドイツを降し優勝。
 2010南アフリカ大会、岡田監督。強豪オランダには1対0で負けるが、カメルーンとデンマークに勝ち、決勝トーナメントに進む。ベスト8をかけたパラグアイ戦は、無得点のままPK戦で敗退。だが、大会前の練習試合がかんばしくなかっただけに、日本中の大多数が「よくたった」と評価したことに私も同感。目標のベスト4にはならなかったが、2つの白星を運んでくれた象さんにも感謝したい。
 それにしてもブブゼラは、蜂の羽音や耳鳴りのようでうるさい。しかし、「ブブゼラや 勝てばさわやか 岡田JPN」  2010年05月撮影 平尾台

11 あの中は 肉と野菜か ぐ〜ぐ〜ぐ〜  2010.06.03 記
 鎌倉時代に中国から伝わってきたまんじゅうは、中華まんじゅう風で、中には羊や豚の肉が入っていたし、皮だけのものもあった。その後、餡を入れたまんじゅうが考えだされ、広まっていったとのこと。
 一方、ハンバーガーは、ファウストフードの代表的な食べ物。日本におけるファウストフード店の歴史は浅く、日本マクドナルドの日本1号店が銀座三越にオープンしたのは1971年。翌年、ロッテリアが日本橋高島屋、モスバーガーが板橋区にオープン。私がファウストフード店の存在を知ったのは、随分あと。それまでは、ハンバーガーとハンバーグ(英語読みではハンバーガーステーキ)の区別がつかなかった。
 「まんじゅう石」と名付けられた経緯は知らないが、少なくとも半世紀以前の命名だと思われる。今だったら「ハンバーガー石」の方がよく似合っている。いずれにしても私達登山者は早朝出発のため、もはや空腹。まんじゅう石を見ていると腹が泣き、よだれがこぼれ落ちてきた。 2010年05月撮影 大分県玖珠町万年山

10 犬と槍 一週だけ勝ち 犬ヶ岳  
 犬ヶ岳、一字違えば槍ヶ岳。福岡県豊前市・犬ヶ岳(1131m)は槍ヶ岳(3180m)に比べてスケール・景観・知名度など全て足元にも及ばない。しかし、シャクナゲが見事に咲く5月の1週間だけは犬ヶ岳が勝っている。年52週だから私の判定では1勝51敗になる。その1勝を私達は見逃さない。登山口より1時間半、ちらほらとピンクの花が見えてきた。さらに鎖の手助けを借り、笈吊岩場を登りつめると登山道の左右はまるで花園だ。この天然記念物のシャクナゲが1Kmほど続く。  06年05月撮影 犬ヶ岳

 
上記の写真・記事とも06年、当サイト「山行日記」に掲載したもの。たったの1勝は厳しすぎるかも知れない。シャクナゲの季節以外にもよく登る山なのでそれなりに評価しなければならないだろう。シャクナゲ開花のよい情報が聞けなかったこともあり、久しぶりにこれが目的の登山を行ったが、花つきが悪く贔屓目にみても1勝の価値が疑わしかった。しかし、来年への期待と、夏に咲くオオキツネノカミソリに思いを込めて減点はしないことにした。   2010年05月 記 

09 母の日や 花より団子 いえ気持  2010.05.13 記
 母の日の贈り物、ほぼカーネーションと相場が決まっていたのは昔のこと。現在では旅行券、グルメ券、観葉植物などと多彩。今年は天候不順のため、野菜が高値だったことから野菜セットもパッケージに収められていた。一方、もらう方はどうなのか。マスコミの調査によると、もらって嬉しいのは、「気持」や「愛」がベストワンだった。
 私の母は20年前、贈り物が届かないところに行ってしまった。親不孝者だった私は、母の日のたびに自分の愚かさが脳裡をよぎる。この日に2人の方から頂いたお土産、「山口銘菓・草焼き団子」と「さぶれ最中・足寄だべさ」を仏壇に供え、手を合わすと母の声が聞こえる。「私は、あなたの優しさが欲しかった」  2010年05月撮影 周防台

08 撮る人の 知らぬが仏 品評会  2010.05.12 記
 私が初めてデジカメに接したのは、平成10年(98年)頃。勤務先の130万画素カメラで業務に使用した。当時は最先端のカメラだったと記憶している。メモリーカードは、SDカードの4倍ほどもあるスマートメディア。ちなみに私が山に携行している今のカメラは、1年半前に購入した1000万画素の汎用品。デジカメの進歩はすざましく、いつもカメラ売り場で立止まっている。次から次に新製品が発売され欲しくなるが、諸般の事情?から立止まる事だけに留めておこう。
 「基」の白い柱は、国土地理院の山頂標識。4人の前方には、11人が勢ぞろい。4人はアングルを定め、セルフタイマーをセット。「ヨーイドン」の合図でシャッターを押し、11人に駆寄る。10秒後、記念撮影完了。 2010年04月撮影 竹田市緩木山

07 百万年 羨ましくも 肩がこる  2010.04.20 記
 写真は平尾台のピナクル「接吻岩」。平尾台は北九州国定公園の一角、日本三大カルスト台地として知られ、国の天然記念物に指定されているし、山野草の宝庫でもある。カルスト台地には、石灰岩が雨水により浸食されたすり鉢状のドリーネ(穴)があり、160万年前にできたものと推定されている。溶け残った石灰岩の突出部をピナクルといい、「接吻岩」もその一つである。百万年もの間、愛し合う姿に羨ましくもあるが、さぞ肩が凝っているであろう。私は齢60を過ぎた頃より何もしなくても、しょっちゅう肩が凝っている。    2010年04月撮影 平尾台 

06 四世代 宗像四塚 そろい踏み  2010.04.15 記
 宗像四塚とは、福岡県宗像市と岡垣町に境界を接する南から北へ城山、金山、孔大寺山、湯川山をさす。いずれも標高500mに満たない低山だが、縦走路は勾配が急なアップダウンの連続で厳しく、ひと月前の縦走では7時間30分を要した。
 写真(上)はタマゴダケ。2年前、城山に環境省絶滅危惧U類指定のウスキキヌガサダケを写真に収めた折、偶然見つけたタマゴダケ。左端を曾孫(ひまご)とすれば、右端の曽祖父(そうそふ)までがそろい踏みしている。キノコにも何かめでたいことがあったのかな。宗像四塚縦走時、私は一列に並んだタマゴダケを思い出し、曾孫は城山〜曽祖父は湯川山へと置き換え、一座一座ピークを踏みしめたものだ。それはまるで私の人生、即ち誕生から青春・子育て・定年退職のように。 2008年06月撮影 宗像市城山

05 屋久杉や 幸を確かめ 天仰ぐ

屋久島ウイルソン株
斬らせしは秀吉の命なり
朽ちた空洞、畳10畳大
そは、古代の匂い尽きぬまま

空洞に入りて天を仰がば
幸多き人にはハート形に見ゆると言ふ
我、双眸に映るは歪なハート
されど、そも幸の一つと想いける

           2009年05月撮影 屋久島

04 飽きもせず 手を取り合って 何千年 
 写真は屋久島の夫婦杉。何千年と詠んだが、古代杉のうちでは最も若いクラス。夫杉の推定樹齢2000年、妻杉は1500年。したがって、手を取り合ったのは1500年以降である。私達夫婦が心から手を取り合った期間は長くない。離婚の危機さえあった。バツがつかなっかったのは“髪結い亭主”的な私を支えた妻の忍耐によるところが大きく、妻に感謝しなければならない。還暦を迎えた時も、妻は空気のような存在だと思っていた。が、妻が2週間入院した際、炊事・洗濯・掃除に難渋し、空気以上のものを確実に感じた。だから、これからも手を取り合っていかねばならない。「手を取り合っているのではなく、奥さんに捨てられないよう手を引っ張っているのではないか」と、友人の声。ま、それはそうだけど・・・。 2009年05月撮影 屋久島

03 マニフェスト こんな時代を 懐かしむ 2009.09記
 09年8月の衆議院選挙において民主党は政権交代を実現した。マニフェストには揮発油税の暫定税率の廃止や高速道路の無料化も含まれている。1974年度施行の暫定税率は、暫定というものの現在まで引き継がれている。有料道路は、一部短い区間はあったが、高速道路は1963年(昭和38年)、名神高速道路のうち滋賀県栗東町〜兵庫県尼崎市が日本で最初に開通した。ちなみに当時の建設大臣は河野一郎。今は、孫の河野太郎の時代に移っている。
 写真にある値段表の昭和37年(1962年)には、揮発油税の暫定税率も高速道路も存在しなかった。当時、私は10代。地元北九州から東京に行くには特急に乗り20時間近くを要し、電卓もなく算盤をはじいていた不便な時代だった。しかし、そのスローライフが故に現在に比べて心の豊かさは数段勝っていたような気がする。そんな青春時代が懐かしい。   2008年05月撮影 大分県豊後高田市「昭和の町」 

02 オキナグサ 私も翁 あとの春
 翁とは、年をとった男のこと。オキナグサは、花後めしべの毛がタンポポのようになる。その形態が老人の頭髪に似ていることから「翁草」の名前がつけられたと言われている。「あとの春」は私の造語。青春時代に対して子育の義務、勤務時間の拘束から解放されて余生を楽しむ “老後の春” を意味する。春夏秋冬の春と理解されそうだが、オキナグサは「迎春花」の別名があり、晩春ではない。年金にたよる生活となっていて、決して余裕はないが、お金がさほどかからない趣味の登山とPC遊びなど、好きなことに時間を費やしている。   2008年04月撮影 平尾台

01 無垢の幕 覆いたくなり おらが過去
 焼酎のコマーシャルにも用いられた国の重要文化財指定「白水ダム」。水が豊富な時は、このように美しさを保っているが、渇水になれば1938年(昭和13年)完工だからダム肌はどんな塩梅だろうかと想像したくなった。多分、いや確実にコマーシャルには使えない。
 人間たるもの誰しも喜怒哀楽はつきもので、特に感受性の強い青春時代のそれは生涯記憶に残ることだろう。私は、“喜” “楽”は別として他人から受けた “哀” “怒” においても精神栄養として良い経験だったと思っている。しかし、人に与えた “哀” “怒” を思うと嫌な気分になる。遠い昔のことだから時効だと割り切る手もあるが、脳裏に白い幕があれば覆ってみたい。 2007年10月撮影 大分県竹田市「白水ダム」 

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